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西郷どんの街へ

 西郷隆盛 (1828-1877) 幕末・明治初期の政治家。座右の銘=「敬天愛人」。

 1828(文政10)年、薩摩国鹿児島城下の下加治屋町で生まれた。父=薩摩藩小姓組・西郷吉兵衛隆盛。

 幼名=小吉、吉之介。父の死後吉兵衛を継ぎのち吉之助と改め、名を隆永、明治以後は父と同じ隆盛を称した。幼名は小吉、諱(いみな)は隆永、のち隆盛、通称を小吉、のちに吉兵衛または吉之助と称し、南洲と号した。

 少年時代を貧苦のなかに過ごし、友人に大久保利通、伊地知正治らがいた。

 1844(弘化元)年、18歳で郡方書役助(こおりかたかきやくすけ)、ついで書役となり27歳まで勤めた。その間、農政改革を求める意見書で藩主島津斉彬にみいだされた。

 1853(嘉永6年)年、ペリーが浦賀に来航した。

 1854(安政元)年、藩主・島津斉彬の庭方役に抜擢され、斉彬の片腕として、条約問題、一橋慶喜将軍擁立運動に奮闘した。その過程で藤田東湖や橋本左内を知り、志士として天下に広く知られるようになった。

 1862(文久2)年、島津久光が亡兄・斉彬の遺志を継いで公武合体運動に着手した。西郷は召還され、「大島三右衛門」と改名した。西郷は久光の計画が杜撰であると批判的であり、また京坂の尊攘派鎮撫のため独断上坂したので久光の怒りに触れ、罪人として徳之島、ついで沖永良部島に流された。

 1864(元治元)年、参予会議の失敗で薩藩公武合体運動が行き詰まると、ふたたび召還され藩勢の回復にあたった。西郷は軍賦役(いくさくばりやく)、小納戸頭取に任命され、京都での政治工作に従事した。蛤御門の変では薩摩軍を指揮して快勝し、側役に昇進して西郷吉之助と名のった。

 1865(慶応元)年以降、幕府中心主義克服の道を模索した。

 1866(慶應2)年、土佐の坂本竜馬らの仲介を得て薩長同盟を締結した。四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し、奔走した。

 第一次長州征伐では征長軍の参謀に任じられ、長州藩の無血降伏を実現した。その後幕薩関係が悪化すると、第二次長州征伐の阻止に動いた。

 1866(慶応2)年、木戸孝允との間で薩長盟約を結んだ。

 1867(慶應3)年、薩長に倒幕の密勅が降下した。西郷、大久保が藩をまとめ、土佐藩、安芸藩と提携した。徳川慶喜が大政奉還の挙に出ると、その逆をついて王政復古のクーデターに持ち込んだ。明治維新政府の誕生に功績を立てた西郷は参与に任命された。

 1868(慶応4)年、京都に進軍する旧幕府軍を撃退した(鳥羽・伏見の戦)。戊辰戦争では東征大総督府参謀となり、勝海舟との会談で江戸城無血開城に成功した。ついで庄内藩討伐にあたり寛大な処置で庄内士民に敬慕された。戦功により賞典禄2000石を得た。

彰義隊掃討戦のころから軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ、鹿児島に帰郷した。

1869(明治2)年、藩参政に就任し、凱旋将兵の主張に沿って門閥打破、大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進した。また、東京政府を公然と批判した。

 1870(明治3)年、鹿児島に下向した勅使岩倉具視に政府改革のいくつかの条件を認めさせた。

「江戸開城談判」

西郷隆盛と勝海舟

聖徳記念絵画館壁画

 1871(明治4)年、政府強化を期す岩倉具視、大久保らの求めに応じて政府に入り、薩長土3藩から招致した軍隊による御親兵の設置に尽力した。西郷が提案した御親兵の編成が実現し、西郷は参議に就任した。廃藩置県の密議に賛同し、成功に導いた。岩倉使節団の米欧巡遊出発後、筆頭参議兼大蔵省御用掛として留守政府を総理した。外遊派は,新規事業と政府首脳部人事の凍結を西郷に誓約させたが、留守政府は各省が学制、徴兵制度、地租改正などの急進的改革政策を進めた。

 1872(明治5)年、天皇の中四国九州巡幸に随行し、帰京後、陸軍元帥兼参議、近衛都督(このえととく)となった。欧化主義には不満であった。

 1873(明治6)年、陸軍大将兼参議となった。朝鮮・釜山の大日本公館のことで日朝の対立が顕在化した。

参議・板垣退助は出兵論を主張した。西郷は閣議で「自ら使節となって朝鮮に渡り、平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現させる」と熱望した。閣議は西郷の要望を受け入れ、朝鮮派遣使節に内定した。だが、太政大臣・三条実美は西郷の平和的交渉論を征韓論と誤解し、帰国した右大臣・岩倉具視と謀って西郷派遣の延期を求めた。西郷は応じず、閣議は改めて西郷派遣を決定した。

だが、久保利通は西郷派遣に反対し、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文らが大久保を支持して連袂辞職を表明した。対策に窮した太政大臣・三条実美は急病を発して政務処断能力を喪失した。

 岩倉具視が太政大臣代理となり、大久保利通、伊藤博文と共に天皇に働きかけ、西郷派遣を葬った。西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は抗議辞職した。これが征韓論政変である。

 西郷は鹿児島に帰った。多くの近衛士官、兵が天皇を振り切って西郷を追った。

 1874(明治7)年、士族の教育、軍事訓練、開墾事業を推進する機関として鹿児島に設立した私学校の経営を腹心の桐野利秋、村田新八らに委ね、悠々自適を決め込んだ。

 私学校党は鹿児島県政を掌握し、県官任免、禄制整理、地租改正、徴兵制という政府の主要な政策を拒絶し、隠然半独立国の形勢をなし、対外的危機の到来を待って、内政大改革に及ぼうと待機した。

 1887(明治10)年、西郷は政府の挑発に激怒する大勢に押されて武力反乱の先頭に立った。これが西南戦争である。敗北を喫し、鹿児島の城山で自刃した。

 1868(慶応4)年の上野戦争では新政府軍(薩長土肥)が彰義隊(幕府の残党)を破った。銅像は薩摩の西郷隆盛が指揮を執った場所に立つ。銅像の後方には彰義隊が眠る。

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